H29年3月議会報告(その1)
4月もすでに終わりの時期。桜の花もとっくに散ってしまいました。
大変遅くなりましたが、3月議会の報告です。
議会は、3月10日~24日にかけて、今年度(H29年度)の予算審議を
中心に第一回定例会(3月議会)として開かれ、審議を終えています。
今回、議案等はすべて議会により承認されました。

過去の例にならうなら、翌々月(5月)の広報(みやけ)に、議案
のタイトル名と、一般質問した議員の名前、が掲載されることと
思います。また、H29年度予算については、歳入・歳出の総額とその
構成、我が家の家計にたとえるなら、といったものが掲載されるもの
と思います。(今期の組織改変については4月号で掲載済でした。)
予算の内容は広報に、予算審議の内容については後に譲るとして、
ここでは、
1.予算の総額、基礎自治体として
2.予算の審議(何を審議するか)について
3.議会を終えて(過去3回の議会審議を経て思うこと)
について、記してゆきます。
1.予算の総額(基礎自治体の予算額)
今年度(H29年度)の予算規模は、およそ36億円。
前年度は、当初予算39億円、補正後36億円。ここ2年ほどは
石見駅前工事等で、30億にいくらか上積みがありますが、おおよそ
のベースは、30億円。3000世帯で30億(世帯あたり100万円)の規模
となっています。これを、多いと見るか、少ないと見るか。。
世帯あたり100万円という金額は、
「わが家も100万円相当のサービスを受けているはず、そんなにサービスを受けて
いたかな?」といったサービスの受け手というとらえ方と、
「100万円相当の税金(国がしている借金を含む)を基礎自治体が使っている」
という資金の供給者としてのとらえ方の2面がありますが、
ともに、『非常に大きい額』、と思われるのではないでしょうか。
私は、そのように思いました。
国の財政規模が100兆円、半分は地方交付税等で地方に流れているとして
50兆円を5000万世帯で使っている。つまり国のサービスも100万円/世帯程度
の規模であるわけです。県(奈良県)は、4000億、60万世帯程度で、ちょっと
100万円/世帯を切るという感じ。
(ざっくりと、国、県、町が、それぞれ100分の1の規模。)
町は、国の10000分の1程度の予算ではあるけれど、一世帯あたりで考えると、
国と同等の税金を使って、国と同等のサービスを実施しているといえるわけです。
私たちは、町の行政を、そういう意識を持って見てゆかねばなりません。
国の国防予算5兆円/年と、町の石見駅開発5億円/年、家計から見た場合、
同等の負担であること。同等のサービスを享受すべきものであること。
町が1億円で箱モノを建てるのは、国が1兆円程度の公共事業をやるのと同等。
町が500万円でやるイベントは、国の500億円のイベントと同等。
『町の予算は、1世帯あたりで考えると、国のサービスに匹敵する規模。
そういった意識の下で、予算審議を行わねばならない。』
2.予算の審議(何を審議するか)
また、「三宅町は人口も少ないし大きな産業もないのでお金が無い。」
といった言葉を耳にすることがあります。これも、人口が近隣の自治体に
比べて1/3とか1/10とか、そのイメージに引きずられている感があります。
現に、1人あたり、1世帯あたりの予算額を見てみると、三宅町の予算は
十分に高く、橿原や桜井や天理や郡山の2~3割増しとなっている。
「人口が少ないから行政運営が非効率となり、余計にお金がかかっている」
ことが根本原因であると思われますが、それを当然の事と思って受け入れて
いては、将来はありません。
本来、予算審議は、こういった観点のもとで、総額についても、また、
個々の行政のオーバーヘッドについても、議論をすべきなんだろうと、
思います。
予算の編成権は、行政にあります。議会は、行政が組んできた予算に
ついて、「個々案件の必要性」と「個々案件の費用の妥当性」を審議する、
というイメージがあります。
でも、本当にこれでいいのかな? と疑問を感じずには、いられません。
「何々は、高すぎる」とか「何々は、やる意味が薄い」「何々には、もっと
お金をかけよ」、これらも必要な事でしょうが、もっと根本的な物、根本的
な事、を議論しないといけないのではないか。
「どういった社会を目指すから、どこにお金をかける」といった事。
基礎自治体レベルでは、税制自体をいじる事は出来ないでしょうから、
やれる事に限界はあるのでしょうが、やれる事はいっぱいあるはず。
『予算審議こそ、目指す社会の姿を審議することから始めるべき』
3.議会を終えて(過去3回の議会審議を経て思うこと)
3月議会(予算審議)が終わった。年間4回の定例会で最も重要といわれる
予算審議であり、個々の案件に対する質疑や質問は行ったものの、根本的には
空しさが残るものであった。 もちろん、議会には予算制定権も人事権も無い
から、なかなか「思い」を実現する事は難しいのは承知の上のこと。しかし、
たとえそうであっても、「これで良いのか? 重箱の隅を突っついているだけ
じゃないのか?」という思いが、心の片隅に残る。
今回で3回目の議会だったが、前々回(9月決算)、前回(12月)、に比べ
ると、「空しさ」は小さくなった。それが、予算審議、予算議決に絡めたから
なのか、議会というものの流れが見えてきて、その流れに乗れるようになって、
いろいろ質問できるようになったからなのか。もし、後者であるとすると、
ちょっと注意しなければならない。確かに、確認したい事、聞きたい事を、
スムーズに問えるようになった。自分の考えも、できる限り意思表示した。
忙しかった。それで、「やった気」になっていないか。「慣れ」に流されて
はいないか。たとえ発言が増え、忙しくしていたとしても、本来やるべき事が
やれていないにもかかわらず、「議会はこういうもの」と体が順応してしまう
ことに注意する必要がある。
『常に、初心忘るるべからず』
別稿で、『今後、予算審査にどう臨んでゆくか』と『29年度予算の個々案件
について』を順に記してゆく予定です。